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名称 |
台町獅子舞(別名 雨乞獅子) |
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住所 |
埼玉県本庄市 |
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電話番号 |
0495 25-1174 |
施設概要 |
340年余りの伝統をもつ台町獅子舞(別名 雨乞獅子)は埼玉県指定無形民俗文化財に指定されている。
7月中旬、本庄城跡の一隅にある八坂神社および台町区自治会館、大正院周辺で三頭の獅子、法眼(雄獅子)、雌獅子、老獅子が舞います。
その舞いは旧台町氏子によって、いまも伝承されています。
【問合せ】 本庄市観光協会 0495-25-1174
【アクセス】 電車:JR高崎線「本庄駅」より徒歩15分(本庄市役所東) 車:国道17号から本庄駅前通りへ約300m(本庄市役所)
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名称 |
金鑚神社 (本庄七福神 「恵比寿尊」) |
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住所 |
埼玉県本庄市千代田3-2 |
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電話番号 |
−
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施設概要 |
金鑚神社は、社殿によると欽明天皇の2年(541)に創立されたと伝えられている。武蔵七党の1つである児玉党の氏神として、本庄城主歴代の崇信が厚かった。
境内はケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。
本殿は、享保9年(1724)、拝殿は安永7年(1778)、幣殿は嘉永3年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施され、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
当社の御神木となっているクスノキの巨木は、顕指定の天然記念物で幹回り 5.1m、高さ約 20m、樹齢約300年以上と推定される。
これは本庄城主 小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられている。 このほか当社でには市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原信嶺筆建立祈願文がある。
【アクセス】 電車:JR高崎線「本庄駅」より徒歩20分 車:関越自動車道本庄児玉ICから国道462号を本庄市街方面へ進み千代田交差点を右折後すぐ
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名称 |
小笠原掃部太夫信嶺夫婦の墓 |
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住所 |
埼玉県本庄市中央2-8 |
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電話番号 |
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施設概要 |
小笠原信嶺は、徳川家の家臣で、信濃松尾城主で天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより本庄氏滅亡のあと本庄城主となり本庄領 1万石を領した。
慶長3年(1598)2月19日、江戸の館で五十二歳にして逝去した。
法名 徹抄道也大居士
【アクセス】 電車:JR高崎線「本庄駅」より徒歩10分 車:関越自動車道本庄児玉ICから国道462号を本庄市街方面へ千代田交差点を右折し「中央1」交差点を先を左折
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名称 |
開善寺 (本庄七福神 「布袋尊」) |
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住所 |
埼玉県本庄市中央2-8 |
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電話番号 |
−
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施設概要 |
開善寺は、山号を畳秀山(じょうしゅうざん)と称し、天正19年(1591)本庄城主 小笠原信嶺が開基し、球山宗温和尚の開山で本尊は聖観世音菩薩である。
和尚は、城主信嶺の夫人久旺院尼(くおういんに)の兄にあたり、武田信玄の弟武田逍遥軒(しょうようけん)の子で仏門に入り甲斐国永岳寺にあったが信嶺に招かれ当寺を開山した。
その後、三世桃嶽祖源の代慶安2年(1649)徳川家光より朱印地十五石が下されている。
当寺には、本庄市指定文化財として、小笠原信嶺夫婦の墓、朱印状を収めた朱印箱、開善寺境内地図、
武田信玄公画像がある。
【アクセス】 電車:JR高崎線「本庄駅」より徒歩10分 車:関越自動車道本庄児玉ICから国道462号を本庄市街方面へ千代田交差点を右折し「中央1」交差点を先を左折
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名称 |
安養院 (本庄七福神 「毘沙門天」) |
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住所 |
埼玉県本庄市中央3-3-6 |
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電話番号 |
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施設概要 |
安養院は曹洞宗の寺で山号を若泉山、寺号を無量寺という。本尊は無量寿如来で、ほかに脇立として観音と勢至の二菩薩がある。
寺伝によると創立は文明7年(1475)で、武蔵七党の一党である児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだが
水不足に悩まされたため、土地を探していたところ、現在の地を発見し安養院を開基したと伝えられている。 慶安2年(1649)徳川幕府から二十五石の朱印地を受けている。
安養院の伽藍3棟が本庄市指定文化財に指定されている。
【アクセス】 電車:JR高崎線「本庄駅」より徒歩12分 車:関越自動車道本庄児玉ICから国道462号を本庄市街方面へ千代田交差点を右折し「中央3」交差点を先を左折
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名称 |
普寛霊場(普寛上人の墓) |
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住所 |
埼玉県本庄市中央3-4 |
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電話番号 |
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施設概要 |
普寛霊場に埋葬された本明院木食普寛行者は、享保16年(1731)秩父大滝村落合に生まれ、本名を浅見好八と言う。青年時代秩父直神陰流の達人として剣術に優れていたといわれている。
34才の時、人心救済を決し修験の道に入り、名を本明院普寛と改め厳しい修行を経て神仏両道の奥義を極めた。また、行者として各地に登山道を開き、中でも木曾の御岳、武尊山は有名で、特に寛政9年(1792)
普寛62才の折に開いた木曾御嶽の登山口は、王滝口と命名されその功績を今に伝えている。
享和元年(1801)9月10日信者であった泉町米屋弥兵衛宅でなくなり安養院に葬られたが、大正11年(1922)道路改修により霊堂と墓は現在地に移された。
【アクセス】 電車:JR高崎線「本庄駅」より徒歩13分(安養院北側に位置する) 車:関越自動車道本庄児玉ICから国道462号を本庄市街方面へ千代田交差点を右折し「中央3」交差点を先を左折
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